誰が何を目的とするのか?
とあるところの日記の一文が気になって少々反論と言いましょうか、コメントをさせていただきます。そう重くは捉えていないのですが、誤解を解く意味に於いて。f"(^_^)
これは直接、先方に対してというよりは広い意味でとらえていただければと。実はこうしたことを書く機会が欲しかったので。
>「しかし、これはこれでれっきとした世論です。尊重しなければなりません。自分にとって気に入らない結果(具体的には「民主躍進」・笑)だからといって、民主党に投票した有権者を批判するのはどうかと思うしねえ郵政選挙の時、自民党に投票した有権者を「バカ」だの「愚民」だのと言った人たちがいました。今回も、民主党に投票した有権者を「バカ」だの「愚民」だのと言う人たちがいるんでしょうか。立場が違えばなんとやら、でみっともないと思います。」
まず、世論(せろん)を受け止め尊重せねばならぬのはそれを受けた立場の者達です。しかし、また一方で大衆が一時の熱でその意を傾け、迷おうとも、毅然と先を見据え、いや、そうでなくこうであらねばならないのだとするのも為政者としての仕事です。いつも大衆が正しいわけではない。
当時の大衆が礼賛し、かのヒトラーを産みだしたものも、民主政治からなのです。
ポリテックとは「政治的」と訳されますが、元々は「良識ある」の意味であります。それが政策の為の政策を弄ぶようにくるとデモクラシーとなり、そのデモクラシーも暴民政治と化し、収拾つかなくなると、ロイヤリティ、君主政治へと進むわけです。
大衆は放っておけばその日その日の生活そのものに生きて、他人や全体との関係、また、十年百年先の事に対して目を向けようとしない、思想も無い。そうなれば大衆心理の中で動物的になりばかりでなく、闘争・破壊・頽廃の中へ陥ってしまう。
真の民主主義とはマッチーニが言うように「一人一階級の進歩ではない すべての進歩である」であろうと。主権を持つべく者が賢明でなければ、例え政治家に徳性を備えたエリートが一人輩出しようとも、善政にはなりません。
「愚民」とは過ぎたる言葉やも知れませんが、ま、正に「バカと言う者がバカ」の世界でしょうけど、それを承知の上での事です。その真意は嫉視排擠を煽るべく用いたのでなく、大衆よ、視野を拡げて、事実を見定め覚醒せよいう意からです。徒に支那の国を嘲笑する資格なぞ無いという事です。いや、逆にそんな国に裸の王様になっているぞと揶揄されているやも知れません。
現実的に今の安倍総理や小沢氏本人やその周辺に関わったり、その裏を知り得たところからも、単なる憶測からでなく書かせていただいているわけです。例え事実や実例を細かくあれこれこの場で述べたとて、結局、論の範疇に収められ、それは受け手の見識でもった直感性に委ねるしか無いでしょう。最終的には自ら体験していただく他にございません。
マスゴミが一面的に騒ごうが、それを血走る憶測の中で固まるのでなく、己で確かめ考える事が大切です。それと見識を備えた上での直感が必要です。
残念ながら今のblog世代は一世代前に現れたbloggerのような実にせまるものが乏しくなり、鋭利な感性で説く者が少なくなったのが残念でなりません。私もせめてその足元に及ぶほどの実力があればと悔やみますが・・・全然努力不足ですね。ハイ。汗。
己の立ち位置がどうであるからとか、どの党にどうしたからであるとか以前に、その政策をどこまで理解し得て決したのか、選挙の争点なるものは、マスゴミによって与えられるものなのであろうか?政局レベルの狭い視野に追い込まれ、その政を為すべき先の方向性、国際面も、はてまた子孫の将来像まで描いたかという事なのです。
あちらでもこちらでもない。自分は相対立するものの中で足して二の位置に自分を置くなどという者が「中立」と称する者がいますが、それは正しくは「中立」と言いません。「介在」しているだけです。「中立」とは道義に照らし、両者より越えた見識で進歩向上した、創造的境地に立つことであります。
スキャンダルに振り回されて、騒ぐのは狂奔にしか過ぎず、本質とはまったく乖離したものです。不正があって許されないとしても、それが何の目的でそうしたか?大半は即、私利私欲の為にと容易に断じますが、それはその人物にもより、決してそうしたものばかりでは無いと申しておきます。政治とカネなどというのは単純な面も確かにあるけれど、深い意味での目的というのが存在するのです。
これまでにこのblogで何度も過去に取り上げてきたように、先の郵政解散においては一般において未だにあの争点、「郵政民営化」に賛成か反対なのかということと、「郵政民営化法案」に賛成なのか反対なのかということが混同されたままです。
また、今回はまたマスゴミが年金問題、政治とカネなどが争点だと勝手に誘導させていましたが、年金問題が制度としての政策論争がこの選挙において繰り広げられたか?少なくともあの年金データー紛失騒動においては、システム云々以前にあれは事務処理におけるサボタージュで、人為的事故なのです。
この国の国民は自治労の組織次長を比例トップ当選させてしまうほど、なんて寛大なのであろうと感じました。これでは制度をどう変えようとも、利は彼らにあるわけだなと。これでは年金問題の怠慢な処理を咎められませんね。
政治とカネにおいてはどちらがどうとも言える状況でなく、いや、それどころか小沢氏自身のことが有耶無耶にされたのは事実ではあります。赤城氏においては問題は問題でありましょうけど、比しても殊更そればかりを大きく取り上げるほどの事ではないということです。報道されている上においては速度15〜20kオーバーの交通違反で警察に見つかったという程度でしょうか?もちろんそれが良いといいませんが。むしろ取り上げ方が小沢氏のそれに対してとまったくあべこべなのであります。
政治資金問題がこれほど騒がれるようになったのも過去のより悪質な汚職により自縄自縛でもって厳法化されてきた面が大きいですが、政治的駆け引きにおける有権者の目を眩ます為のトラップで、脇が甘いといえばそれもそうでしょうが、これは「陋規」の範疇。それを「清規」でもって騒ぎ立て、停滞するとなると、もう、これは始末に終えないものです。その辺りの単純思考さが、大戦中、大陸での日本軍の姿勢に於いて支那人に軽蔑された一因でもあります。いわば、それを逆手に取られたのが今の現状でもありましょう。
工作がどうこうだと述べても信じざれば、馬の耳に念仏なのであえてやめておきます。が、ただ実証主義を追うだけでは得られないものがあること、または手遅れになってしまうことがある事、それだけは信じていただければと。常に時代は変動しますから。一般に「まさかそんな事」というような事が永田村の住人も気付かぬ裏でどんどんと進行しているのです。
「陋規」をも逸っした小沢氏の今後、マスゴミの制御と共にどうなるか、旧田中派系の密事も含めて、観察しています。
政治とは、選挙とは、あれに投じたくないからこっちとか、そんな低レベルの選択であってはならないのです。しっかり、己らの目で調べれば、完全に意に得た対象を見つけられずとも、大凡託したいところの政策というのがあるはずです。候補者が仮に出来が悪いとするなら己が出馬すれば良いのです。候補者がズバ抜けて大衆から躍り出るような事を過度に期待しても、候補者がその大衆の投影されたある種の形であるわけですから無理もありましょう。
何はともあれ政治の場に一身ささげる方には、最低、『貞観政要』を修めていただきたいというのがささやかな私の希望であります。
まぁ、しかし、今回の選挙で、非拘束式名簿の選挙の意味をしっかり承知して一票投じた者がいたかどうかとなると、周囲から聞くに、あまりにも残念でなりません。活かせるものも活かされていない。全体的に無効票も少なくなかったであろうに。
選管しかり、マスゴミは一体何をしていたのか・・・
書かぬよりはマシだが、投票日の昼に報じても手遅れだろう・・・。(=_=#)
「政党、候補者名どちらでも投票可…比例選にご注意」(讀賣新聞)
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これは直接、先方に対してというよりは広い意味でとらえていただければと。実はこうしたことを書く機会が欲しかったので。
>「しかし、これはこれでれっきとした世論です。尊重しなければなりません。自分にとって気に入らない結果(具体的には「民主躍進」・笑)だからといって、民主党に投票した有権者を批判するのはどうかと思うしねえ郵政選挙の時、自民党に投票した有権者を「バカ」だの「愚民」だのと言った人たちがいました。今回も、民主党に投票した有権者を「バカ」だの「愚民」だのと言う人たちがいるんでしょうか。立場が違えばなんとやら、でみっともないと思います。」
まず、世論(せろん)を受け止め尊重せねばならぬのはそれを受けた立場の者達です。しかし、また一方で大衆が一時の熱でその意を傾け、迷おうとも、毅然と先を見据え、いや、そうでなくこうであらねばならないのだとするのも為政者としての仕事です。いつも大衆が正しいわけではない。
当時の大衆が礼賛し、かのヒトラーを産みだしたものも、民主政治からなのです。
ポリテックとは「政治的」と訳されますが、元々は「良識ある」の意味であります。それが政策の為の政策を弄ぶようにくるとデモクラシーとなり、そのデモクラシーも暴民政治と化し、収拾つかなくなると、ロイヤリティ、君主政治へと進むわけです。
大衆は放っておけばその日その日の生活そのものに生きて、他人や全体との関係、また、十年百年先の事に対して目を向けようとしない、思想も無い。そうなれば大衆心理の中で動物的になりばかりでなく、闘争・破壊・頽廃の中へ陥ってしまう。
真の民主主義とはマッチーニが言うように「一人一階級の進歩ではない すべての進歩である」であろうと。主権を持つべく者が賢明でなければ、例え政治家に徳性を備えたエリートが一人輩出しようとも、善政にはなりません。
「愚民」とは過ぎたる言葉やも知れませんが、ま、正に「バカと言う者がバカ」の世界でしょうけど、それを承知の上での事です。その真意は嫉視排擠を煽るべく用いたのでなく、大衆よ、視野を拡げて、事実を見定め覚醒せよいう意からです。徒に支那の国を嘲笑する資格なぞ無いという事です。いや、逆にそんな国に裸の王様になっているぞと揶揄されているやも知れません。
現実的に今の安倍総理や小沢氏本人やその周辺に関わったり、その裏を知り得たところからも、単なる憶測からでなく書かせていただいているわけです。例え事実や実例を細かくあれこれこの場で述べたとて、結局、論の範疇に収められ、それは受け手の見識でもった直感性に委ねるしか無いでしょう。最終的には自ら体験していただく他にございません。
マスゴミが一面的に騒ごうが、それを血走る憶測の中で固まるのでなく、己で確かめ考える事が大切です。それと見識を備えた上での直感が必要です。
残念ながら今のblog世代は一世代前に現れたbloggerのような実にせまるものが乏しくなり、鋭利な感性で説く者が少なくなったのが残念でなりません。私もせめてその足元に及ぶほどの実力があればと悔やみますが・・・全然努力不足ですね。ハイ。汗。
己の立ち位置がどうであるからとか、どの党にどうしたからであるとか以前に、その政策をどこまで理解し得て決したのか、選挙の争点なるものは、マスゴミによって与えられるものなのであろうか?政局レベルの狭い視野に追い込まれ、その政を為すべき先の方向性、国際面も、はてまた子孫の将来像まで描いたかという事なのです。
あちらでもこちらでもない。自分は相対立するものの中で足して二の位置に自分を置くなどという者が「中立」と称する者がいますが、それは正しくは「中立」と言いません。「介在」しているだけです。「中立」とは道義に照らし、両者より越えた見識で進歩向上した、創造的境地に立つことであります。
スキャンダルに振り回されて、騒ぐのは狂奔にしか過ぎず、本質とはまったく乖離したものです。不正があって許されないとしても、それが何の目的でそうしたか?大半は即、私利私欲の為にと容易に断じますが、それはその人物にもより、決してそうしたものばかりでは無いと申しておきます。政治とカネなどというのは単純な面も確かにあるけれど、深い意味での目的というのが存在するのです。
これまでにこのblogで何度も過去に取り上げてきたように、先の郵政解散においては一般において未だにあの争点、「郵政民営化」に賛成か反対なのかということと、「郵政民営化法案」に賛成なのか反対なのかということが混同されたままです。
また、今回はまたマスゴミが年金問題、政治とカネなどが争点だと勝手に誘導させていましたが、年金問題が制度としての政策論争がこの選挙において繰り広げられたか?少なくともあの年金データー紛失騒動においては、システム云々以前にあれは事務処理におけるサボタージュで、人為的事故なのです。
この国の国民は自治労の組織次長を比例トップ当選させてしまうほど、なんて寛大なのであろうと感じました。これでは制度をどう変えようとも、利は彼らにあるわけだなと。これでは年金問題の怠慢な処理を咎められませんね。
政治とカネにおいてはどちらがどうとも言える状況でなく、いや、それどころか小沢氏自身のことが有耶無耶にされたのは事実ではあります。赤城氏においては問題は問題でありましょうけど、比しても殊更そればかりを大きく取り上げるほどの事ではないということです。報道されている上においては速度15〜20kオーバーの交通違反で警察に見つかったという程度でしょうか?もちろんそれが良いといいませんが。むしろ取り上げ方が小沢氏のそれに対してとまったくあべこべなのであります。
政治資金問題がこれほど騒がれるようになったのも過去のより悪質な汚職により自縄自縛でもって厳法化されてきた面が大きいですが、政治的駆け引きにおける有権者の目を眩ます為のトラップで、脇が甘いといえばそれもそうでしょうが、これは「陋規」の範疇。それを「清規」でもって騒ぎ立て、停滞するとなると、もう、これは始末に終えないものです。その辺りの単純思考さが、大戦中、大陸での日本軍の姿勢に於いて支那人に軽蔑された一因でもあります。いわば、それを逆手に取られたのが今の現状でもありましょう。
工作がどうこうだと述べても信じざれば、馬の耳に念仏なのであえてやめておきます。が、ただ実証主義を追うだけでは得られないものがあること、または手遅れになってしまうことがある事、それだけは信じていただければと。常に時代は変動しますから。一般に「まさかそんな事」というような事が永田村の住人も気付かぬ裏でどんどんと進行しているのです。
「陋規」をも逸っした小沢氏の今後、マスゴミの制御と共にどうなるか、旧田中派系の密事も含めて、観察しています。
政治とは、選挙とは、あれに投じたくないからこっちとか、そんな低レベルの選択であってはならないのです。しっかり、己らの目で調べれば、完全に意に得た対象を見つけられずとも、大凡託したいところの政策というのがあるはずです。候補者が仮に出来が悪いとするなら己が出馬すれば良いのです。候補者がズバ抜けて大衆から躍り出るような事を過度に期待しても、候補者がその大衆の投影されたある種の形であるわけですから無理もありましょう。
何はともあれ政治の場に一身ささげる方には、最低、『貞観政要』を修めていただきたいというのがささやかな私の希望であります。
まぁ、しかし、今回の選挙で、非拘束式名簿の選挙の意味をしっかり承知して一票投じた者がいたかどうかとなると、周囲から聞くに、あまりにも残念でなりません。活かせるものも活かされていない。全体的に無効票も少なくなかったであろうに。
選管しかり、マスゴミは一体何をしていたのか・・・
書かぬよりはマシだが、投票日の昼に報じても手遅れだろう・・・。(=_=#)
「政党、候補者名どちらでも投票可…比例選にご注意」(讀賣新聞)
「 29日投開票の参院選は、2001年に比例選に「非拘束名簿方式」が採用されてから3回目の選挙となる。比例選は、候補者名簿に順位はついておらず政党名でも候補者名のどちらでも投票が可能な制度だ。
一方、衆院選の比例選は各政党があらかじめつけた名簿順に従って当選していく「拘束名簿式」を採用しており、これと混同しやすく、投票には注意が必要だ。
参院の比例選も、98年の選挙までは、政党があらかじめ候補者に順位を付け、有権者は党名で投票する「拘束名簿式」が採用されてきた。
これに対して、現在の「非拘束名簿式」は、政党名と候補者名による票を足したものを、政党の総得票と計算する。これを「ドント式」と呼ばれる方式で計算し、各党の総得票数を1、2……の整数で割っていき、商の大きい順番に、各政党に当選者数を配分する。各党の中での当選者は「候補者名」での獲得票数が多い順に決まる仕組みだ。
01年は比例票全体の約35%、04年は約30%が候補者名での投票だった。
(2007年7月29日11時31分 読売新聞)」
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